ヒョルトの国と聖王国1


下記はHistory of The Heortling Peoples 86ページから87ページの記事の抄訳です。かつてGlorantha Digestで17C現在のヒョルトランドの情勢について激論が交わされました。この議論に対してグレッグがある程度公式な答えを与えていると私は解釈しています。訳の間違いの責任はzebにあります。

以下はグローランサの文書ではない(訳注1)

ベリンタールの改革
ベリンタールは手続きを定め、それぞれの六分国(訳注2)の民が教団orderlyのもとに、指導者を平和に選出する方式を整えた。たとえば、ヒョルトランドでは六分国の統治者はヒョルトランド総督Governorと呼ばれ―「黄金の」アンドリン(訳注3)の子孫である伝統に従う支配家系の一員であった。六分国の統治者は最高権力者ではなく、ベリンタールのために六分国を治めていた。

六分国の統治者たちはベリンタールの肉体の潜在的な源であり、たいていの場合、「運命と死の支配者」の競技に参加する資格があった。他の者も目覚めてみると「運命と死の支配者」の競技に参加することがあったが、なぜそうなるのかは当人には謎のままであった。

行政上の目的から、ベリンタールはそれぞれの六分国を「巡察使Deputy」に治められる属領Provinceに分割した。(オーランス人には伯Earlと呼ばれた)巡察使たちはみな総督に任命され、随従companionsや「同朋comes」(オーランス人には庄官shire reevesや、代官sheriffsと呼ばれた)たちの援助を受けていた。

「同朋」たちは支配者でなく、総督の代理人であり、巡察使が政府の行うさまざまな義務をこなした。巡察使は税を集め、徴兵し、議論を収め、ベリンタールに反逆する者を罰した。強力な氏族の族長はヒョルトランド全土で自分たちの役割を保持した。(この仕組みはオーランス人社会にとって不可侵である)

これらの改革は中部海洋帝国(訳注4)の政府の組織に基づいていた。中部海洋帝国はこのような中間統治層を影響下の国々を治めるために任命していた。中部海洋帝国はカースト制に支配されておらず、人の功績を賞賛することに関してきわめてフレストル主義であった。この慣習は中部海洋帝国からエスヴラール人に伝わったもので、ベリンタールはエスヴラール人から学び、マルキオン教流とみなされていた。

これらの改革は聖王国の他の六分国に真似られ、多かれ少なかれ影響を与えた。ベリンタールはそれぞれの地域のだいたい同程度の規模と人口にひとりずつ総督を置こうと試みた。大部分の地域で最高位の指導者をすげ替えることに成功したが、人口稠密なエスロリアではこの国を分割することをベリンタールは数回試みた。しかし、その結果は伝統的な家族を非公式の政府にしただけであり、認定された政治組織ではないものの、政府の関わらない生活の全てを支配し続けたのであった。

ベリンタールとヒョルトランド
1317年、ベリンタールはヘンドレイキの王[「黄金の」]アンドリンを殺害し、ヘンドレイキ人が新たな王を選ぶことを防ぐために守護霊たちを置いた。部族や氏族、都市は権力を求めて戦ったが、ベリンタールは(オーランス信徒としての「息」を奪って)アンドリンを蘇生させ、ヒョルトランド六分国の総督に任命した。

総督としての引き続く戴冠式において「王」と称したにも関わらず、アンドリンは古代のレガリアをまとわず、ホワイトウォールで戴冠せず、伝統的な儀式も用いなかった。したがってアンドリンと彼の後継者たちはベリンタールから祝福や、守護霊や、魔術の力を得ていたが、もはやオーランス人の王ではなかった。実のところ、大部分のヒョルト人の伝統主義者はこれらのヒョルトランドの支配者達を僭称者とみなし、彼らを「王」とは呼ばなかった。

「伯」や「代官」たちによる統治組織は氏族の族長たちに取って代わるものではなく、ヒョルトランドのヒョルト人社会組織の基本的な単位であり続けた。氏族の族長たちは自分の氏族の内情を支配し続けたし、氏族の中の争いを平穏にとどめ、「僭称者のしもべたち」の手の内にはまらないように奮闘していたのである。

エスヴラール人とヒョルトランド
第一期、少数のエスヴラール人が南の海岸地帯とバンドリ峡谷に定住していた。彼らはヘンドレイキ人の僕となり、「アヴェントゥス王の異邦人の法(訳注5)」の元に置かれた。(実際に支配下に置いたのは480年ごろのディノース王である)エスヴラール人は後にジストル教団と中部海洋帝国と同盟した。(800年ごろ)そして海岸地帯とヒョルトランド南部を征服したが、民をジストル教団や神知者のカルトには転向させなかった。

ヘンドレイキ人や古の種族やEWFが最終的に「鋼の陥落の戦いSteelfall Battle」でジストル教団を倒すと、エスヴラール人は再び海岸地帯やバンドリ峡谷に追い払われた。「揺り動かす者」アンドリン王は再びエスヴラール人を「アヴェントゥス王の異邦人の法」の元に置いた。

第三期のベリンタールの台頭に伴い、エスヴラール人は再び力を増した。ベリンタールに提供された平和と安定、「えこひいき」はエスヴラール人が繁栄することに導いた。エスヴラール人はもはやヘンドレイキ人の法の下の「異邦人」ではなく、特権を持った、寵愛されるグループであった。

1621年、エスヴラール人はヒョルトランド国内では少数派で、ヒョルトランド南部「属領地」に多くの農奴の人口を含めて、せいぜい7万5千人から8万5千人であり、ヒョルトランドの残りの地域では1万5千人より多くはならない数である。比較対照として、ヒョルトランドの三つの「属領地」(ヴォルサクシ国を含まない)の総人口は50万人程度(訳注6)である。南部属領地をのぞけば、エスヴラール人は完全に都市化している。南部属領地においても、田舎の人口の大部分はオーランス信者であり、アエオル派ではない。エスヴラール人の小さな居留地はノチェットや、他のケタエラの港湾都市に存在している。

「黄金の」アンドリンとその後継者たちは伝統的にエスヴラール人をその「巡察使」や「同朋」に任命していた。エスヴラール人は総督の臣下であり、より信頼できたし、自分の氏族や親族のグループの意向に左右されない者たちであった。アンドリン以来、ヒョルトランドの支配者たちは大部分エスヴラール人であった。ヒョルトランドのアエオル派の支配者たちは自分の臣下の大部分の文化に対して相反する感情を持っていた。ある論者は言う:

「ヒョルトランドの現代の支配者達は、自分達を民族、慣習、言語と文化のうえでエスヴラール人と見なしている。彼らは自分の家門や臣下にエスヴラール人のみ迎え、ヒョルト人を完全な隷属化においた。」

これはある種の誇張であるーヒョルトランドの支配者の家門には常に数人ヒョルト人がいたが、(軍隊の下士官を除けば)ヒョルト人は少数派であった。



訳注1:完全に客観的な事実であるということか。グローランサに関する文章としては珍しい
訳注2:影の高原、エスロリア、ヒョルトランド、忘神群島、左腕諸島、カラドラランド
訳注3:「黄金の」アンドリン、ヒョルト族の間でAndrinは非常に多く使われる名前なので注意すること。例えば第二期の「揺り動かす者」アンドリン王Andrin the Moverとは別人である
訳注4:第二期の神知者の帝国
訳注5:アヴェントゥス王はヘンドレイキの聖なる三王のひとり(在位はグバージ戦争中)。非ヒョルトランド人に対する法を定めた。
訳注6:この記事は以前のRQ3rd Genertela Bookの設定をグレッギングしている。同書ではヒョルトランドの(ヴォルサクシ国も含めた)総人口を50万人としていた