ダラ・ハッパとの交流

ダラ・ハッパとの交流
ダラ・ハッパの伝説には神話的なダージーンの民との交流について記録がある。この地域は(ダラ・ハッパ人には)スヴァーリア(Suvaria)と呼ばれていた。

ヒーロークエスター達(訳注、Travel and Journeyer:「旅と遍歴の者たち」、ルナーのヒーロークエスターのこと。TaJerと約されることが多い)がほのめかすことによれば、初期のマニマト王家とは接触が(またしばしば争いが)あったようである。確かにアルコスの民の「われ、ダージーンの簒奪者どもを憎む」はなんらかの神話的な争いが土台にある。

初期の接触は村や進んだ道具をダージーンの地にもたらした。土着の民はこれらの特質を自分の用に合う形で受け入れた。

そして近づいてきた神々を歓迎したのである。

おそらく「赤の王」(訳注:ナヴェーリア地方の伝説王)との戦争が行われたのであろう。もしかするとスヴァーリアはムルハルツァームの帝国の一部であったかもしれない。これらの変化を通して、ダージーンはダラ・ハッパから離れていた。

ダージーンはダラ・ハッパ史において、民がマナルレイヴァス帝の壊れた天蓋を離れて、皇帝マニマトの保護下に入ったときに重要になった。

ダラ・ハッパとダージーンの帝国としての運命はコルダフ帝がブローチを獲得したときに分かちがたく結びついた。

そして後を継いだ皇帝たちは皇帝のレガリアの一部としてブローチを保有した。ダージーンはしたがって政治的に圧倒されたのであった。

初期のダラ・ハッパ人はスヴァーリア人の(比較的な)淫らさと奔放な性に衝撃を受けた。しかし神聖な慣習を迫害する術はなかった。

シュール・エンスリーブが巣のひな達を守るために立ち上がり、鷲の神も、槍の神もシュール・エンスリーブを傷つけることはできなかった。

シュール・エンスリーブの民の行動と、女神の大っぴらな争いのおかげで、スヴァーリア人は自分たちが政治的に征服されても、女神には手を出すことができないということを証明したのである。慣習は認められ、それに対する態度が形作られた。

ダージーンとドブリアは二千年間、ダラ・ハッパの属領であったり、なかったりし続けた地域だった。

全時代を通して、シュール・エンスリーブの入信者たちはある種の活動を保証されていた。したがって、このカルトは頑固な古来からの、定式化した反ダラ・ハッパ感情の表出でもあった。

このカルトの慣習に多くのバリエティが単に侵略者を悩ます目的で強調され、発展された。最もよく知られているのはおそらく悪名高い「大いなる性の狩猟」の儀式であり、シュール・エンスリーブの翼の下で執り行われる。

その豪奢な浪費と広範囲にわたる公共の場での見世物は、英雄ヴェロンドゥムによって導入された古代の習慣の遠くからの残響なのである。

Material From Enclosure #1, Excerpt From "Weeders" By Greg Stafford